思ったより響かなかったけどフジリュー育ちだからかなと思った「天気の子」感想
天気の子の結末にふれまくっています。
響かなかった一番の原因は感想ツイートが目に入ってしまうことだけど。
直接的なネタバレはなくてもなんとなく物語わかってしまって驚きは減って、鑑賞中は「そういやこんなツイートあったな」「あのツイートはこの場面のことだったのか」とツイートの答え合わせの気分。
「少年は己の選択に責任を取らなくて良い」という結論は好きだけどその理由が「なぜなら大人は子どもの人生の責任をとってくれないから」というのは世知辛いしなあ。しかも「そもそも人間の営みなんてちっぽけで世界への影響なんてたいしたものではない」というのも身も蓋もない。
とはいえ新海誠監督が日経MJのインタビューで「この30代以上の人間はこの映画で人生が変わることはないけど、10代にとっては1日でも一生でも影響があるはず」ということを話していたとおり、もう自分が「大切なものの優先順位を変えられない」大人になってしまったということなんだろう。
せめて須賀さんのように少年をあまり突き放さない大人になるしかない(ちなみに須賀さんは自分の娘と世界だったら娘を選ぶ気がする)
「主人公の選択がダイレクトに世界のあり方を変える」フジリュー作品といえばDRAMATIC IRONYだけど、天気の子と比較するとDRAMATIC IRONYの結末は利己的な選択で世界を変えてしまうことの恐ろしさを突き付けているようで怖い。それぞれには致し方ない事情があるにせよ、身近な人は意志を肯定してくれても、みなが自分のためだけの選択を続けていくと感覚が失われた荒廃した世界になってしまう。
天気の子に対しては「陽菜や帆高みたいに世界のあり方を選択する主人公になったことなんかないし!」と感情移入でききらなかった人間にも、少年の選択をひとごとのように肯定できる人間にも、MANGA機で主人公になれるDRAMATIC IRONYはこれはおまえの物語、おまえの選択だと突き付けてくる。
一人ひとりが世界の行く末に責任を持つことはできないが、それぞれが正しく世界に尽くして次の世代に世界を渡してくことはできる。太公望は、フジリューはそう語りかけてくる。世界のために、未来のために自己を犠牲にするのが美しいのだと。
自分が子どものころから思春期にかけてふれた作品は、そうやって自己犠牲を尊ぶものばかりだったと思う。
でもそうやって人のために社会のためにと思って少年少女が己を犠牲にしてきても世界は決して良くならなかった。
だから帆高は陽菜に叫ぶ。自分のために願って良いと。自分のことを願えるのは自分だけだから。
90年代のジャンプ作品である封神演義では、太公望が世界に尽くして最後には消えかけても太母の力に助けられた。
2019年の現実の日本、東京には神はいない。人が他人を助ける余裕もない。たぶん2020年代も悪化していくだろう。
社会のためにひとりの人間ができることなんかない。「世界ははじめから狂っていたんだから」とうそぶいて自分のために生きるしかない。
せいぜい祈り続けることしかできない。
なかなか世知辛い映画だと思う。
現実の日本が世知辛い時代に進んでしまったから仕方がない。
それぞれができる選択をしながら祈り続けるしかない。
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